NO.2 「遊びの主体…そして自然」 01.02.22


                        
 −彼女は無心に遊んでいます−。

 使っているのは砂と水と木の枝。道具はバケツだけです。自分ですべて見つけてきました。 いうなれば、自分で考え、自分が主体となって遊びを作り出しているのです。 このような光景は、全国の幼稚園や保育園で日常ごく普通に見られると思います。

 「子どもは遊びの天才である…」昔は、こう言われていました。
 わざわざ、昔は…という言葉を使ったのには理由があります。近頃はそうでも無くなってきたと感じているからです。 
子育て中の方は、試しに何の人工物も無い場所、例えば河原や原っぱ等にお子さんを連れていってみてください。(注:公園は人工空間です)多分、小さい子ほど木の枝や石など、適当なものを見つけ、自分で遊びを作って遊び始めるでしょう。でも、中には「何をして遊ぶの?」という反応の子がいるはずです。そして年齢が大きくなるにつれてこういった子の割合は増加すると思います。

それは何故でしょうか。
今の世の中には物と情報が溢れています。その中に染まってきつつある子ども達には、河原や原っぱは「遊ぶものや、することが何もない」所なのです。
一方、子ども本来の遊ぶ力を宿している子どもにとっては、それらの「何もない場所」は遊ぶものや、やることが無限にある宝庫です。
こういった「力」消失させてしまってはならないと思います。それには、できるだけ小さいうちから「何もない」場所で遊ぶ経験をさせるしかないでしょう…。大きくなればなるほど、主にテレビを発信源とした物の情報に染まっていってしまい、それらの物がない場所は「何もない」場所となります。そして、そうなってしまってしまったらもう戻ることは困難です。

考えてみてください。
子どもはおろか、私達大人達までが行っている「遊び」で他人(業者)にお膳立てしてもらってるものがいかに多いかを…。
そして多分、自分で考え、主体的に行っている「遊び」が少なくなってきていることを…。

こういったことの解決のキーワードは「自然」です。
本当の「自然」の中で遊ぶには、ある意味では相当な能力が要ります。そこには、何をどうしてどうなるといったお膳立てや公式はありません。そしてそれは、本へ親しむのと同じように子どもの頃を逃すとなかなか身につきにくいと思うのです。
自然は、人間にとって都合が良い面ばかりではありません。時には、生命さえ奪うことすらあります。しかし、その恩恵は計り知れず、何より「自然」によって生かされているのが、私達人間なのです。
子どもの頃に自然の中で遊び、沢山の贈り物をもらった人間は、大人になってもその喜びは根強く残っていて、一旦離れることはあっても必ず戻ってくることができます。そして、喜びを与えてくれる元の自然を汚したり、壊したりはしないはずです…。

いくら物を持っても、その欲望に限りはなく、心は豊かにはなりません。

私達大人が、しなけけばいけないことは、子ども達に本来の遊びができる自然という場を残すこと、そしてそこで遊ぶことができる力が無くならないように育んでやることです。

その力こそ、「生きる力」なのですから…。