NO.6 「フツー本なんか読まないよ」 01.11.26


 −平成13年11月25日付の朝日新聞朝刊(埼玉版)によると、埼玉県教育委員会の調査によれば、県内の高校生の57.9%は家で全く勉強をせず、51.1%は全く本は読まないそうだ。また、毎日新聞が全国学校図書館協議会の協力で行った「第43回学校読書調査」によれば、高校生の1ヶ月平均の読書量は1.0冊、中学生は1.6冊で、1ヶ月に1冊も本を読まない高校生は70%、中学生は55%だそうである−。

 こうなってくると、人間界のオキテとして、その者が所属する社会においての多数派が「普通」となるので、日本の若者においては、「本は読まない」のが「フツー」だと言えなくもない。そう、マサイ族の男は槍を持っているのが「普通」のことであるし、イヌイットはアザラシの生肉を食べるのが「普通」であるというのと同じことかもしれないが…。

 でもやっぱりこれは、「困ったこと」である。なぜなら、本を読まないと主体的な想像力が働かず、生きていくことの意味や目的を考えることが難しいからである。そのことが解らなければ、ただ社会に流されてなんとなく生きていくだけだ。そう、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」のように…。
 この辺のところを、偉大なる作家「ミヒャエル・エンデ」は、かなり前に予見していて、「はてしない物語」を書いた。「ネバーエンディングストーリー」として映画にもなったので、ご記憶の方も多いと思う。原作と映画は少し違うが、本を読む人がいなくなってきて、その本を読んでいる人の想像力で作られている国「ファンタージュン国」が危機にさらされていくという話だ。

 「想像力」は人間のあらゆる「意欲」の源泉であるような気がする。科学者が新しい研究にとりかかったり、進めたりするにも、「これがこうだったらどうだろう?」と想像してから始めるだろう…また、自分の可能性を上げるための勉強に打ち込むのも明確なビジョンがいる。そして、うちの園児が砂場で、「この山に、トンネルを掘ったらどうだろう」と考え、やってみるのも想像力からである。これらの間には何の隔たりもなく、想像したものが明確であればある程、「意欲」は増す。

 無気力な若者、やりたいことが思いつかず自らは遊べない子ども…みんなエンデが予見したことと無関係ではないように思う。すべて想像力に欠け、意欲に欠けている…。こういったことを「生きる力がない」というのだろうが、「生きる力」=「想像力」とおきかえられなくもない。

 今、「子ども達に生きる力」をという掛け声のもとに、全国の小中学校で「総合的な学習の時間」が行われているが、「想像力」がもともと育っていない子どもにいくらそんな時間をあたえても、彼等にとっては「算数の計算より楽な遊びの時間」であり、ただの「息抜きの時間」であろう。

 勉強にも、仕事にもあまり意欲がなく、すべて可もなく不可もなく「フツー」である。本なんか読まないのが「フツー」である。
こういう若者が「フツー」になった国の未来を想像すると、ホラー映画よりも恐ろしい。

 そして、こういう若者を「フツー」にしないために今日も幼稚園をやっているのだ。雨の一雫もやがては大河となることを夢見つつ…。